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2020年 古典で遊ぼう

2020.9.6 第100番  順徳院  第八十四代天皇  父の後鳥羽院と共に宮廷の儀礼を復興させ、藤原定家を和歌の師とし、
頻繁に歌会を主催した。が、承久の乱で配流された悲劇の帝王である。(1197~1242)
 
     
父、後鳥羽院と共に鎌倉幕府に対抗
して承久の変を起こしたが、敗北。
佐渡島に流された。 佐渡で
「順徳院御百首」を詠じ、隠岐に流された
後鳥羽院と、都の定家に送った。
 宮中の、その古びた軒端の忍ぶ草を
見るにつけても
昔を懐かしむにつけて、なお、
やはり忍びきれない(栄えていた)昔の
御代であることよ。

佐渡で二十一年を過ごした。生まれた
皇女二人、皇子1人も
都を知らないままに若く亡くなった。
絶食の果てに自殺したと
伝えられている。哀れである。
 
2020.2.29 第99番 後鳥羽院    第八二代。高倉天皇第四皇子。四歳で即位。退位後も24年間院政をとる。隠岐の島に配流後も和歌を作り、藤原家隆と手紙のやり取りをして慰めとしたが60歳で崩御。(1180~1239)同年顯徳院の号が奉られたが、
怨霊化をおそれて1242年後鳥羽院に改められた。
     
1199年、源頼朝が死去すると、
鎌倉幕府の実権は北条氏に移る。
上皇と幕府との軋轢が増していく。
寵愛した白拍子,「亀菊」の
所領問題がこじれて「承久の乱」の
発端となったといわれる。遊芸一点張り
だった上皇が、弓矢や刀にあけくれ
朝権回復すべく討幕のために『承久の乱』
を起こした。乱での大敗後、上皇は出家し
隠岐の島に流される。

我こそは、新島守よおきの海の
荒き波風心して吹け
ある時には人を愛おしく思い、
また、ある時は 人を恨めしく
思われる。意にそわず、
世の中をつまらないなと思うゆえに
あれこれ悩む私であるよ。


造営した水無瀬の離宮が
お気に入りだった上皇の和歌。

見渡せば山もとかすむ
皆瀬川夕べは秋となに思いけむ

この天皇は 文武両道で武芸にも優れ
競馬、相撲,闘鶏、琵琶,囲碁、など
遊芸のこり方も並みではなかった。
また、造営した御所や離宮は18にも及ぶ。
定家の日記「明月記」によれば
「毎日遊蕩三昧でそのために牛馬を走らせる」
とある。
24年間に28回も熊野詣をした。
和歌にも執心。1201年、宮中に和歌所を
置き、定家らに『新古今集』を選ばせ
改めて自ら御親選された。
隠岐に配流された以後も崩御までの19年間
「隠岐本新古今集」を選定し、
「詠五百首和歌」「遠島御百首」
「時代不同歌合」「後鳥羽院御口伝」
など残した。
     
 
 2020.01.29   第98番 従二位家隆(1158~1237)新古今和歌集の選者。自らも四三首入集。
 
     
俊成の門弟。晩成型であったが
「六百番歌合」、「正治百番」などに
参加。藤原定家と並び称される
歌人として評価されるにいたった。
藤原良経、定家、家隆は同時代の
歌人として活躍する。隠岐の島の
後鳥羽院に忠義をつくし、
手紙、和歌を送り交わし、それが
遠島歌合となる。
 
風がそよそよと楢の葉にそよぐ
このならの小川 の夕暮れは
すっかり秋の気配である。
ただ、夏越しのみそぎの行事だけが
まだ夏であることのしるしであるのだな。
後鳥羽院は「秀歌共詠み集めたる多さ、
誰にもすぐまさりたり」と賞賛した。
定家と違い、官位に執着しなかった。
参議従二位になるも二年後には
出家した。大阪の四天王寺にはいり、
夕日丘より見える「ちぬの海」に沈む夕日を好み、
彼方の極楽へ行くことを望んだという。

契あれば難波の里に宿りきて
浪の入り日をおがみけるかな

2020・01・06  第97番、権中納言定家 (1162~1241) 『新古今集』『新勅撰集』『小倉百人一首』の原典選者。
 
     
父は藤原俊成。俊成四九歳の時の子。
14歳で高倉天皇の侍従。
正二位権中納言にいたる。 
父に命じられて(堀川題百首)を詠み、
両親は息子の才能を確信して感涙した
という。九条家に仕えて九条歌壇で活躍。
その後、後鳥羽院の愛顧を受けるようになる。
後鳥羽院は活発に歌会や、歌合わせを
主催し、定家は中心的な歌人となる。
(約束しながら)やってこない人を
心待ちする私は
 あの松帆の裏の夕凪
のころに焼く藻塩のように、
身も焦がれる
程に恋い慕っていますよ。
この一首は本歌どり。
万葉集、笠金村(かさのかねむら)
の長歌を本歌に取っている。

「・・・・淡路島松帆の裏に朝なぎに
玉藻かりつつ夕凪に藻塩
焼きつつあまおとめ・・・・」
後鳥羽院に引き立てられ、引き続き
順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍。
ところが、
承久二年、内裏歌会に提出した歌が
後鳥羽院の怒りに触れる。
承久三年、承久の乱が勃発。
院は壱岐に流される。
定家は西園寺家、九条家の後援のもと、
社会的経済的な安定を得て
歌壇の第一人者となる。ちなみに第96番の
入道前太政大臣(藤原公経)は
定家の奥さんの弟です。
 20200106  第96番 入道前太政大臣(藤原公経・きんつね)  源頼朝と縁戚。鎌倉勢力と組んでいたので後鳥羽院に疎んじられる。
     
源頼朝と縁戚であったため
後鳥羽院に疎まれた。
承久の乱で後鳥羽院が失政すると
転変する乱世にあって幸運な生涯を過ごした。
病により74歳で亡くなる。 
桜の花を誘うように散らす嵐の
花吹,雪ではなくて、
老けてゆくものは、私自身であることだよ。 
雪のように(降る)花吹雪と
旧(降る)は掛詞。
承久の乱の後時局の収拾に当たる
幕府の信頼を背景に京都政界
で絶大の権勢をふるった。
多芸多才で、琵琶や書にも秀でた
贅沢な幸せな生活をしても、なお、
避けられない「老い」の嘆きは 現世
への執着の強さであろう。
 
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